I DO.
1989年 フィラデルフィア(アメリカ)
「グローバルな時代」という言葉を最近よく耳にします。
ヴォーカリストも帰国子女だったり、ハーフだったり、英語を普通に話す人が増えてきました。
そんな中、英語を話したいという理由だけではなく、様々な理由で海外留学に興味を持つ方は多いと思いますが、少しでも皆さんの参考になる様、私が演劇を勉強したアメリカ・ペンシルベニア州立ウエストチェスター大学での生活について、簡単にまとめてみました。
もう10数年も前の事ですし、記憶としてあやふやな部分や、現在と違う部分もあるかと思いますが出来るだけ当時を思い出して書きましたので、アメリカの大学に興味のある方に見ていただければ幸いです。
<背景 ~なぜ僕が留学を~>
僕が留学したのは1989年、俗にいうバブルの時で「トレンディードラマ」と呼ばれるものが出てきたり、音楽では「イカ天」とかが流行ったりしている頃でした。
日本の企業はたくさん海外へ進出し、ビジネスや科学技術で世界を支配しようとしていた時でした。
日本人にとってはそんなトレンディーな大人たちが輝いて見え、海外の人からしたら日本人はイエローモンキーの悪魔に見えたと思います。
もちろん僕は金や科学技術で世界を支配する気は全く無く、ステージの勉強がしたくてエンターテイメントの本場のアメリカに行くことを決めました。
昔からジャッキー・チェンが大好きで自分で監督をやりながら演じるという事へのあこがれもありましたし、歌いながら派手なステージを作り上げるマドンナやマイケル・ジャクソンも大好きでした。
さらに円高という事もあり、日本に私立の大学に行くのと、アメリカの公立の大学に行くのとでは費用的にあまり変わらなかったのです。
一大決心をし、父に思いを告げました。
「いけばー。」
と、すんなりオーケーをいただき、アメリカの大学に行く事を決めた18歳の秋でした。
高校卒業後、早速日本の英語学校に入り、そこの紹介でアメリカの大学のESLプログラム(英語集中課程)というものに編入しました。
<ESL編 ~なぜか天才と呼ばれる~>
1989年7月、まず大学に入る前に、聞き、読み、書きができないと話にならんだろう、という事でアメリカペンシルベニア州立ウエストチェスター大学ESLプログラムに入りました。
その中で、TOEFL(Test Of English as a Foreign Language)というテストを受けて、学校の基準の点数を取れば正式に大学に編入できるというシステムです。
ウエストチェスター大学(以後WCU)の基準点は確か500点か550点だったと思います。
私は入学早々その基準点に向けての猛勉強を開始しました。
とはいえ、僕自身初めてのアメリカで、人も建物も何もかも見る物すべてが新しく、今思えば最初の1ヶ月ぐらいは毎日ワクワクドキドキしていた気がします。
人は無意味にでかいし(縦にも横にも)、ピザはあり得ないぐらいおいしいし、家はレンガで造ってあるし、ルームメイトはカンボジア人だし、、、、、。
環境が変わって悩むとか、つらいとかいう次元ではなく、ただただ受け入れる感じだったように思います。
で、ただただ受け入れる感じがよかったのでしょうか、日本では勉強したことが無かった私が学校内で行われたTOEFLでESL中トップの650点ぐらい(だったと思います)の点数を取り2位以下とかなりの差をつけて、大学入試の切符を手にした訳です。
その時生まれて初めてHe's genius!!「彼は天才だ!!」と言われました。
正直、スポーツと遊び以外でそんなこと言われたことが無かったのでうれしかったことを覚えています。
<Freshman時代 ~癒しの町フィラデルフィア~>
そして夢にまで見た大学生活が始まりました。
そしてそこには地獄のような生活が待っていました(こんなことをいうと留学する気が無くなるかもしれませんが)。
どのように地獄かというと、
1. 教科書は全部英語です。
2. 次の授業のために1つの授業につき50ページから100ページぐらい予習していないと授業についていけません。
3. 復習しないともちろんついていけません。
4. たまに、講師が外人(ロシア人かイタリア人)で英語なのに何を言っているのかさっぱりわからない時があります。
5. 質問や意見をしないとやる気がない人と思われて後で先生に呼び出されます。
先生が黒板に書くことをまる写しする典型的な日本人の私としては、5.が一番大変でした。
そんなこんなで、毎日、寮→学食→教室→図書館→学食→教室→図書館→学食→図書館→寮、みたいな、文字にしてもちっとも面白くない生活が始まりました。
睡眠時間は2~3時間というのはザラで徹夜の日も多かったです。
そうは言っても、何かしら息抜きは必要なので、週末はいつもWCUからバスに乗って1時間ぐらい行ったところにある、フィラデルフィア(映画「ロッキー」で出てくる所)という町に行っていました。
もともと都会が好きなので、華やかで人通りの多い街を歩くだけで癒されました。
この町が私のこれから苦しみに満ち溢れることになる4年間を救ってくれたといっても過言ではありません。
<Sophomore編 ~怒りのウエストチェスター~>
Sophomoreというのは2年生の事なのですが、2年目にもなるとただがむしゃらに頑張っていた1年目とは違い、色々な事が見えてくるようになります。
で、アメリカのような歴史が浅く、自由を尊重する国にいると、歴史に根差したしきたりがあり、礼儀を重んじる日本人には自然と頭にくることばかりになります。
所構わず平気でゴミを捨てる人がいたり、夜中に部屋の外で爆音がしたので見てみると酔っ払ってゴミ箱にタックルして笑顔で流血している人がいたり、バスの中ででっかいラジカセを担ぎラップを大音量で流す人がいたり、、、、。
ほぼ毎日、日本人の感覚では考えられないことが起こり、もともと気性の荒い、アメリカ滞在2年目で、ある程度物を考える余裕が出てきた僕はいつも怒っていました。
そんな僕の日々の怒りの矛先は、音楽、特にへヴィメタルという音楽に向いていったのでした。
この頃から僕はフィラデルフィアのライブハウスにちょくちょく出入りするようになり(当時MR.BIGやイングヴェイ・マルムスティーンなどが1,000円ぐらいで見れました)客席の最前列でヘッドバンギングをするような特殊なタイプの人間へと変貌していきました。
ライブハウス絡みでいえば「黒人ボディーガードにつまみ出される事件」や「客俺だけなのに最前列でヘッドバンギング事件」「終電に乗れず夜中の犯罪都市徘徊事件」など、結構無茶なエピソードがあるのですがそれに関してはまた機会があった時にお話しします。
今考えれば、この頃の音楽への執着が今のソウルマティックスとしての活動に繋がっているのかもしれませんね。
<Junior編 ~日本人デザイナー、本領発揮~>
Juniorというのは3年生の事です。
これくらいになると日々の怒りも慣れへと変わり、学業では本格的に私の専攻科目である演劇の方に力が入っていく訳です。演劇には、セット、衣装、照明、メイクなどそれぞれのセクションにデザイナーがいて、それを演出家がまとめていく訳ですが、演出専攻のぼくはそれらすべての授業を受けないといけませんでした。
そこで初めて、自分が持っている日本人のアイデンティティーという物を痛感させられることになりました。
よく日本人は手先が器用だと言われますが、まさに私はその手先の器用さを生かし様々な作品を仕上げていきました。ちなみに舞台の衣装用で僕が縫ったスカートは、作ったその日に盗まれる(盗まれた)ぐらい完成度が高く、先生から「売り物になる」と言われるほどでした。セットを組み立てるのも、もともと実家が大工で、幼少の頃から親の手伝いをしていたので、まわりの人たちより何倍も手際よくやっていました。
また、日本人はアンパンやテリヤキバーガーのように様々な物を組み合わせるのがもともと得意です(本当にそうらしいです)。僕も台本を読み時代背景やキャラクターを考え、衣装、セットをデザインするのが、とても得意でした、というより普通の感覚でやっている事がものすごく評価されました。
アメリカ人からしたら、見た目がヘビーメタルで(ライダースの皮ジャンにロン毛)寡黙な日本人がものすごいデザインを持ってくるので、かなり不気味だったと思います。
Sophomoreの時のアメリカ人にキレまくっていた時もそうですが、まさかこんな所で自分が日本人であることを実感し、日本人の中に刷り込まれている感覚の素晴らしさを実感するとは思ってもみなかったです。
<Senior編 ~留学生活総仕上げ~>
Senior(4年目)に入ると普通の学科は卒論を仕上げていくのですが、僕のような演出専攻の場合は卒論の代わりに卒業制作としての劇の演出をしないといけません。
僕が演出した劇は、人々が資源を無駄使いすることにより人々の生活がゴミだらけになるというミュージカルコメディーで、まだエコロジーという言葉が世に浸透してなかった当時としてはとても斬新な作品でした。もちろんそこでも持ち前のデザイン力と編集能力を生かし、同期の優れた生徒たちを押しのけて優秀な成績をとることができました。
今でもコンサートやイベントの後、見ず知らずの人に声をかけられてお褒めの言葉を頂くことがありますが、その時もたくさんの人に声をかけられました。最終的に、実際にステージ上をゴミと埃だらけにしたので、後片付けで次の人の作品の上映が遅れてちょっと怒られたのですが、片づけている最中にも終ってからも、たくさんの方々にお褒めの言葉をいただきました。
4年間の集大成が認められたと同時に、ステージの魅力を再確認した出来事でした。
誤解のないよう言っておきますが、上にも書いたようにデザインや演出の授業に関してはとても輝かしい成績を残し、あまりにも素晴らしい生徒だったように書いておりますが、それ以外はいたって普通の成績だったことをお伝えしておきます。
<最後に ~ありがとうアメリカ~>
私が高校の時亡くなった祖父が生前、いつも言っていたのが「英語だけは話せるようになっておけ」という事でした。
その言葉が心のどこかに常にあったのかもしれません。
私は高校卒業後、アメリカに行くことを選び、4年半という期間をアメリカで過ごしました。
そんな19歳~24歳の人生の節目ともいえる期間にアメリカに行けた事を本当に良かったと思いますし、一切反対せずにアメリカの大学に行かせてくれた両親に本当に感謝しています。
アメリカに行っていなければステージに立つことはなかったかもしれないし、ましてやゴスペルという音楽に触れることもなかったと思います。
普通に家を継いで大工をしていたかもしれません(それはそれで幸せだと思いますが)。
西洋に憧れる日本人は「国際人」という言葉をよく使いますが、それは最初から世界の基準を中心に考えたり、常にニュートラルな立場でいるという事ではなく、日本人としての意見やアイデンティティーをきちんと理解しているという事と、違う文化の中に入った時に主張する部分を見つけてうまく調和していく事だと思います。
そしてそれは実際に海外に行って、異文化に触れてみないと理解できない事です。
英語を自由に操れるようになりたいという人にはもちろんですが、自分の存在価値やアイデンティティーを見失っている、特に若い人達にはぜひ海外に行って異文化に触れる事をお勧めします(できれば長期)。
そして、僕みたいに日本では味わえない喜怒哀楽を体験すれば、きっと日本では見えなかった自分が見えてくるはずです。
この留学記を書きながらたくさんのことを思い出し、改めて自分を見つめなおすことができました。
まだまだ本当にたくさん書きたいことはあるのですが、今回はここまでにしておきます。
Makoto Idogawa